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小野氏発祥の横山党

 横山党を率いるのは横山氏で、豪族「小野氏」(近江国小野村)(現在の大津市)の小野篁から数えて9代目後裔とされる横山義隆が、現在の八王子の「横山庄(別名:舟木田庄)」にやってきたと一般的には考えられています。別の呼び方では、横山党小野氏と呼ばれる場合もあります。
 小野氏と言えば、天皇家ともゆかりがある名家で、下記の3人を輩出した事でも有名です。

  日本書紀にも出てくる外交官・遣隋使(607年)で有名な飛鳥時代の小野妹子(男性です)
  絶世の美女として知られる女流歌人・小野小町(803年?~901年?)
  書道の神として知られる小野道風(894年~996年)

 小野氏が現在の八王子を治めることになったのは、中央(京)からやってきた役人(官僚)であったと容易に推測できますが、横山氏の祖先が小野氏と言う事には疑問を唱える説もあり、もともと現在の八王子を支配していた豪族が、なんらかの理由があり先祖は小野氏であると称したことも考えられます。

 小野氏は、陽成院領の小野牧を国家が直営する勅旨牧にした際に、中央(京)より散位小野諸興が別当(この当時「別当」は馬の牧場を管理すると言う意味)として、現在の八王子市南大沢一帯?で「小野牧」と言う馬の生産地に赴任してきたとされ、その後、近くであった横山庄(八王子市)に移り住んだ言う説があります。

 小野牧は、八王子と鎌倉をつなぐ道「御殿峠」の麓にあたり、現在の南大沢周辺とする説もありますが、小生は相模原市の城山町にある小野地域だと考えています。
 八王子市由井町から上柚木・下柚木にかけて は「由比牧」、八王子石川には「石川牧」がありました。
 小野牧は、相模原市城山町の小野だとするのが、小生の説であります。小野牧の規模は由比牧の2倍ともされ、1000頭以上の馬を飼育していたようです。
 後年小山田氏が町田市小山田で別当に就任していることから、鎌倉初期には八王子市・多摩市・町田市とまたがる広大な面積に広がっていたとも考えられます。
 実際、町田市小野路町にある小野神社は小野篁を祀った神社で、972年頃に武蔵の国司として赴任した小野孝泰による建立とされます。小野路も小野氏の勢力下だったことがわかります。
 八王子市由井町から上柚木・下柚木にかけて は「由比牧」と小野牧と区別する説もあります。 
 なお、馬を飼う一族は、当然ながら馬術に秀でた者だったと考えられ、後に横山党が源平合戦で騎馬武者として活躍したり、戦国時代小山田氏が武田軍最強と言われるのも、納得できます。

 そして、小野から更に広域を支配するようになり、総じて「横山庄」と呼んだと小生は考えております。
 横山庄を開発したのは、1150年と言う説もありますが、米生産はそれ以前からおこなっていたと考えるのが普通であり、その説には確証がないように思えます。

 939年、平将門の乱。別当小野諸興は「軍」として借り出されることになり、武蔵権介兼横領使に任命されます。この頃舟木田荘(横山荘)に移り住んだと考えら、以後は武士団として軍事力を高め、土地支配を進め土着する形となります。

 ハッキリと横山党に関する記述が最初にあるのは1051年です。
 1051年横山氏は源頼義に従って前九年の役(ぜんくねんのえき)と言う、東北地方でおきた安部氏の反乱にも出陣し、源氏と関係が深い関東の有力豪族である畠山氏に従属していたとも言われています。
 1079年8月10日には、支配地拡大の為、相模国に進出したい横山党と、逆に武蔵国へ北上したい鎌倉党が衝突。相模国住人・鎌倉為季(鎌倉権大夫為季)は、横山党に属する中村氏の押領使・中村景平(押領使景平)を合戦の末、首を取ります。これに「景平一族」は数千の軍勢にて鎌倉季為を攻め討ち取ったとあります。
 当時、武蔵国や相模国には群盗が群れていて、各郷ごとに群盗を鎮圧するための押領使が置かれていました。

 1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より、槙山党は討伐を受ける。しかし、横山党は3年間も抵抗。そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。
 横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。末娘は鎌倉党の梶原景時の母。さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました。

 1156年保元の乱では、源義朝軍として横山党から中条新五、中条新六、成田太郎成綱、箱田次郎、新田次郎、河上三郎、別府行雄、奈良三郎、玉井資重、藍原太郎、海老名源八季貞、波多野小次郎義通が出陣しています。

 1184年、源平合戦で有名な一の谷・鵯越(ひよどりごえ)の合戦では、横山氏などが活躍したと「平家物語」にも記述があります。馬術にすぐれていたからでしょう。
 この頃の横山党など武蔵国の御家人7党を総じて「武蔵七党」と称し、横山党は武蔵七党で最大の勢力です。
 
 1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広はそれまでの軍功により横山庄の所領を安堵されます。
 その横山党も鎌倉時代の和田合戦(1213年)で多くが討死し、横山党は領地没収となり滅んだ為、資料などはあまり残されておらず、不明な点が多いのも事実ですが、和田合戦なくして横山党は語れませんので、和田合戦についてもご覧頂けますと幸いです。

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