相模原周辺に墜落したアメリカ軍航空機など

スポンサード リンク

 相模原近辺の高射砲部隊

 調布飛行場 高射砲6門 一九〇三部隊調布隊
 片倉城跡(八王子市) 高射砲
 唐木田 (唐木田山王塚跡) 高射砲
 町田 (玉川学園敷地内) 高射砲
 湘南平(平塚) 12.7cm2連装2基高角砲4門、25mm2連装機銃1基2門、25mm単装機銃1基1門
 披露山(逗子) 高射砲3門
 南毛利砲台(厚木ぼうさいの丘公園) 12.7cm連装2基高角砲3問、弾200発、95式陸用高射器1問、98式4.5m高角測距儀1、96式110cm探照灯2、25mm機銃4門
 (海軍) 高座海軍工廠高射砲陣地(座間市さがみ野1丁目、ひばりが丘4丁目) 高射砲5門
 江ノ島 高射砲

 上溝の防空監視所と相模原の被害

 昭和19年1月からは防空法の施行により、相模原市内でも延焼防止の為、各所で建物の取り壊しが行われる。
 B-29が本土空襲を始めると上溝の役場屋上に防空監視所が設けられた。
 昭和19年5月以降は、アメリカ軍艦載機(戦闘機)が、B-29護衛任務を果たしたあと、帰還する際に余った弾薬などで銃撃(機関銃による地上攻撃)などを、連日のように上溝地区など加えていたようだが、敵機による人的被害はなかったようだ。

 昭和19年8月からは相模原への学童疎開が行われ、相模原市内の寺院は横須賀の児童を迎えた。
 焼夷弾による被害は、下溝大橋の農家が一戸焼失。
 日本軍の飛行機事故(空中衝突)による墜落で、清兵衛新田の家屋が焼失し2名死亡。
 太平洋戦争によって亡くなった相模原の住民は、従軍含んで約1400人、大野地区(淵野辺も入る)では376人との事。更に詳しいことがわかったら、この項目も更新したい。

 相模原周辺に墜落したことが確認できるアメリカ軍航空機
 
 1945年4月2日、サイパンからB-29が、立川の中島飛行機武蔵製作所を夜間空襲。この作戦で、アメリカ空軍のB-29は、4機が撃墜され、2機は故障消失している。
 第20空軍第73爆撃団第500爆撃群第881爆撃隊所属のB-29 (搭乗員11名)が、中島飛行機武蔵製作所を空襲し立川方面から相模原方向への帰路の際、高射砲弾が直撃。町田高等女学校(現・町田高校)上空で空中爆発。尾部と左翼は同校校庭、右翼と胴体は本町田管原神社東に落下。
 付近にはガソリンが飛散して畑一面が火の海となり、機体の残骸はトラック10台で相模陸軍造兵廠へ運ばれたと言う。
 機長のLaw中尉はパラシュートが開かず墜落死。他の搭乗員はパラシュートで脱出し、無事降下したもの全員が日本軍により拘束。東部憲兵隊送りとなった。9人は東京陸軍刑務所に収容されたが、5月25日の東京空襲により刑務所が焼死。戦後帰国できたのはHopper軍曹だけであったと言う。
 他には、ほぼ同じ時刻に相模原では無く、川崎市生田に墜落した 第73爆撃団第498爆撃群第877爆撃隊 B-29 を、厚木基地・海軍第302航空隊坂田喜三郎少尉操縦 北川良逸一飛曹同乗 月光が撃墜し、B-29搭乗員が、パラシュート降下中にパラシュートが炎上し、墜死した氏名不詳の1名が、相模原市上溝の安楽寺墓地に埋葬され、戦後アメリカ陸軍により回収された。また、同機の搭乗のOsborn軍曹(レーダー手)は、相模原市下溝で拘束され、東部憲兵隊司令部留置所に収監されたが4月18日に全身火傷から意識不明に陥り、回復の見込みなしとして、東部軍軍医部平野建二中尉により20日に毒殺処理され、小石川陸軍墓地に火葬埋葬されたと言う。他の搭乗員は戦死。

 1945年2月19日には、152機のB-29が立川の中島飛行機武蔵製作所を高高度昼間精密爆撃する為、浜名湖・富士山から八王子方面に進入。松戸飛行場から飛び立った陸軍飛行第53戦隊の第3飛行隊第4小隊長・広瀬治少尉(21歳)操縦の「屠竜」は丹沢上空8300mでB-29編隊を発見し、甲府上空辺りで移動中のB-29に攻撃開始した。
 屠竜は、二式複座戦闘機で、30mm機関砲などを備えていた。1機撃墜するも、全弾撃ち突く、右エンジンも被弾したことから、広瀬治少尉は、特攻出撃では無かったが、意を決して体当たり攻撃を敢行した模様。
 広瀬治少尉は、後部座席の加藤君男伍長に「加藤降りろ」「体当り」と叫び、B-29 目がけて突撃した。屠竜は、B-29に体当たり攻撃すると上野原市西原の阿寺沢に墜落し、広瀬治少尉は戦死。
 同乗の加藤君男伍長は、衝突寸前まで、無線で体当たり攻撃を信号を送信していたようで、衝撃で気絶したまま放り出され、落下中に落下傘が自然に開き、無意識のまま降下、八王子付近に降下したようだ。気がついたら病院のベッドの上だったという。
 一方、体当たり攻撃で墜落したのは、第73航空団500爆撃群第881爆撃隊所属 B-29 で、空中分解して破片が広範囲に落下し、乗員8名が戦死。付近にはB-29搭載の爆弾も不発のまま多数落下し、陸軍が爆破処理に来たと言う。
 WEISER軍曹は八王子市下恩方の恩方村役場裏山にパラシュート降下したものの既に死亡しており、浄福寺に埋葬。
 EVANS二等軍曹は、恩方村上恩方の興慶寺南のヘビ山にパラシュート降下したものの逮捕。上恩方駐在所に連行された後、東京憲兵隊を経て大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還した。
 また、JANECEK軍曹は、翌日に西多摩郡檜原村で檜原警防団により発見され、福生憲兵分遣隊により、東京憲兵隊へ送られたが、3月6日に東京第一陸軍病院に入院。しかし、その後、3月6日に栄養失調と咽喉部ジフテリアにより死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
 戦後、屠竜の墜落地付近に西原招魂社が建立され、広瀬少尉の慰霊碑が供えられた。1998年には由緒碑も追加され、当時、回収したB-29の破片や、屠竜の破片も保管されている。
 また、現在の八王子市鑓水付近には、1945年2月17日午前11時30分頃、空母・ランドルフの戦闘機 F6Fヘルキャット(機体番号72635) がゼロ戦の阪一等空曹戦の体当たり攻撃を受けて墜落。McCOWNEL海軍少尉はパラシュートで脱出したが、高度が低かったため地面にたたきつけられ頭部を重傷。捕虜となり、村人から立川憲兵隊員に引き渡され、東京都牛込の東京陸軍第一臨時病院に入院したが、22日に死亡し、東京小石川の陸軍墓地に埋葬された。
 阪一等空曹戦の期待も上柚木の畑に激突し、阪一等空曹戦死の地と言う碑が立っている。
 このように、相模原近辺でもアメリカ軍機と日本軍機とが、生死を掛けて、空中戦などを行っていた時代があったことを、しっかりと受け止めて頂きたい。八王子は1945年8月2日にB-29爆撃機169機により、空襲を受けている。日本本土空襲では3番目の焼夷弾投下量だったのだ。

 → 相模原でも風船爆弾が生産された

 > 相模原の歴史カテゴリ  サイトマップ ブログパーツ


スポンサード リンク

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 相模原情報へ 
Pocket
保存
はてな
ブックマーク
Google+
シェア
Follow on Feedly

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る