淵辺義博と淵辺義博居館・淵野辺の地名

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 日本の地名と言うものは、昔から呼ばれていたケースだけでなく、豪族や人物の姓名が地名になるケースなど様々です。相模原市に町名として今でも残っている地名にも、歴史ある地名があります。
 横山、小山、矢部、田名などの地名の由来を調べていくと「横山党」の存在がわかりました。
 このページでは、横山党より120年あとの鎌倉時代後期から現在の淵野辺の領地を支配していた渕辺氏と、江戸幕末まで所領としていた岡野氏をご紹介します。

 淵辺義博居館

 神奈川県相模原市中央区淵野辺には「淵辺義博居館跡」の碑があります。

 

 場所は下記の地図ポイント地点です。
 アパートの裏手側にありまして、特に見学は問題ありませんが、訪れる場合には、よそ様の土地ですので、騒いだり付近の道路に車を止めたり、近所迷惑にならないようご配慮願います。
 碑の隣の水道施設の土地が、どうも館跡という伝承になっているようです。
 駐車場はありません。
 
 

 淵辺氏
 
 源氏の流れで祖先を足利荘(栃木県足利市)に持ち、鎌倉時代も有力御家人だった足利氏が、鎌倉時代後期、鎌倉幕府内でも力をつけてきます。
 そんな足利氏・足利尊氏の弟、足利直義に仕えていたのが、淵辺氏・淵辺義博(ふちのべよしひろ)(不明~1335年)で、渕辺氏の名前が「太平記」に出てきます。
 淵辺義博、淵辺良博はどちらが正しいかわかりませんが、ここでは義博としてご紹介します。
 ご存知の通り足利尊氏は室町幕府の初代将軍で、足利直義は「両将軍」と呼ばれました。

 別名:地頭 渕辺判官伊賀守義博、淵辺判官義博、渕野辺氏、淵野辺氏、淵辺義博

 

 鎌倉時代前期に、横山党が滅んでから、横山庄は大江広元に充てえられましたが、小山、矢部、田名などの所領はどの御家人に与えられたか、確かな記録が残っていません。
 その後、確かに相模原市内の領地として現在の淵野辺を治めていたのが、この渕辺氏となりますが、いつ頃から足利直義の家臣だったのか、いつ頃から淵野辺の領地を与えられたのかなどは不明です。

 初めて淵辺氏の名前が出てきるのは下記の「大蛇退治」です。この話は後ほど・・。

 鎌倉幕府滅亡

 淵辺義博が関係した鎌倉幕府滅亡からの流れを調べてみました。

 鎌倉時代末期に後醍醐天皇が討幕運動を起こしますが、事前に露呈し1332年隠岐に流罪となります。
 1333年2月24日、後醍醐天皇(45歳)は名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵。これを追討するため鎌倉幕府から討伐軍として3000騎で派遣された足利高氏(尊氏)は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じることを上洛途中でひそかに決意し、そのまま京に進軍します。鎌倉から派遣された部隊でもあるにも関わらず、出発時は敵だった天皇に味方して「官軍」となると味方する御家人もあり約15000騎に膨れ上がります。5月8日鎌倉幕府の京都役所・六波羅探題を攻略し、六波羅探題は壊滅。この時足利直義(26歳)も兄・足利尊氏(28歳)と行動を共にしており、渕辺氏も側近としてついていたとも考えられます。

 時はほぼ同じ、1333年5月8日(5月5日と言う説が正しいかも)、新田庄(群馬県太田市)を治め無位無官で、日の目を浴びない存在であった新田義貞(32歳)も、北条氏の圧政に不満が元々あり、後醍醐天皇の呼び掛けに応じ挙兵。最初は150騎だった新田軍でした。鎌倉に人質として置いていた、足利高氏(尊氏)の嫡男千寿王(のちの義詮 よしあきら 4歳)は、わずか200騎の足利勢に守られて鎌倉を脱出し、新田軍に合流。その効果もあり、周辺御家人が続々合流し1万数千騎までなります。
 そして、ほぼ同じ1万騎を出陣していた幕府軍と5月11日小手指原、5月12日久米川で衝突。新田軍は更に加わる軍勢多く、幕府軍は次第に最後の防衛線である多摩川まで後退。事態を重く見た幕府軍は更に10万の援軍を分倍河原へ送ります。連戦連勝の新田軍は5月15日、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始しますが、さすがに10万以上の幕府軍には勝てず、堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却します。この敗走の際、武蔵国分寺が消失したと言われています。
 新田軍は一時は危ぶまれましたが、5月16日関戸で幕府軍を撃破し大勝利。幕府軍は鎌倉に敗走します。恐らくは六波羅探題が足利氏に攻め落とされた、予想もしていなかった報を幕府軍側に知らせたなどにより、幕府軍の結束が揺らぎ、総崩れになったと考える事ができます。その後、新田軍には次々に加わる軍勢が多く、鎌倉に入る頃は約60万もの大軍勢になったと言われています。
 新田軍は藤沢に出て鎌倉を総攻撃。幕府軍は約16000騎で防戦。鎌倉は天然の要害だけに苦戦しますが、挙兵から15日後、鎌倉を占拠し、北条高時とその一族約700名は討死もしくは鎌倉の葛西ヵ谷で自刃し北条氏は滅亡。1333年5月25日、鎌倉幕府が幕を閉じます。

 建武の政権

 その後、後醍醐天皇は天皇親政(天皇がみずから行う政治)によって朝廷の政治を復権しようとします。これを建武の新政(建武政権)と呼び、鎌倉には後醍醐天皇の皇子の成良親王(7歳)を将軍として、足利尊氏の弟の足利直義が補佐するために執権職として12月14日に鎌倉に入り、鎌倉将軍府が設置されました。新田義貞は鎌倉攻めの功により建武政権より武者所の長を任じられます。しかし、同じく後醍醐天皇から派遣された細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った新田義貞は後醍醐天皇を頼って上洛します。

 この後、後醍醐天皇が進める建武政権は政局の混乱や恩賞の不公平により武士層を中心に不満を招きます。

 足利直義に以前から淵辺氏が仕えていたとすると、六波羅を攻めた1333年の時点では、また淵野辺の地は治めていなかったのではないかと推測します。主君の足利直義が鎌倉を治めるので、一緒について来て、鎌倉に近い淵野辺の地を所領と与えられたとも考えられます。

 1334年、京において護良親王(26歳)と足利尊氏(29歳)の対立が深まり、11月15日後醍醐天皇(46歳)は、護良親王を捕えて鎌倉に移送し足利直義に預けると、鎌倉・東光寺の土牢に幽閉されました。

 中先代の乱

 1335年7月14日、旧領である信濃に潜伏していた北条高時(鎌倉幕府第14代最後の執権)の遺児北条時行(10歳前後※7歳とも)が諏訪頼重や滋野氏らに擁立され信濃で鎌倉幕府復興のため挙兵。各地で鎌倉将軍府の軍勢を破り、5万騎に膨れ上がり鎌倉から出陣してきた本隊の足利直義軍を7月22日~23日、井出沢の戦い(町田市本町田)で諏訪頼重らに大敗を喫します。敗れて鎌倉に戻った足利直義は、足利尊氏の子でまだ幼い足利義詮(千寿王)や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れ、鎌倉は7月25日北条高時に占拠されます。
 鎌倉では後醍醐天皇の第一皇子護良親王が幽閉されていましたが、9ヶ月をも幽閉された身ではまともに抵抗することもできず28歳という若さでした。淵辺義博は、その死に顔のすごさに怖れ、首をかたわらの藪(やぶ)の中に捨てたと言う記録もありますが、定かではありません。

 古典「太平記」によると、7月23日、足利直義は北条時行に護良親王を奉じられる事を警戒し、鎌倉へ逃げる際に家臣の淵辺義博に護良親王殺害を命じたとしています。護良親王は東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められていて、淵辺義博ら7騎に殺害された護良親王は、寵妃として仕えていた雛鶴姫(南の方)と呼ばれる女性に弔われました。また鎌倉の五峯山理智光寺跡には、淵辺義博が、護良親王の死に顔のすごさに怖れ、首をかたわらの藪(やぶ)の中に捨てたのを僧侶が見つけて弔ったと言うと石碑もあります。
 ただし、太平記自体の信憑性も証明されておらず、有力説ではありますが淵辺義博が実際に護良親王を殺したとは言い切れないのかも知れません。
 実際には殺すに忍びず鎌倉から領地(淵野辺)に連れてきて保護し、その後、石巻(宮城県)に逃がしたという記述が水戸光圀編纂の「大日本史」に記載されています。その時のエピソードとして、護良親王を石巻に出発させる際、渕辺義博は主君足利直義の命に背く事になるため、境川に掛かる中里橋で、妻子や家来と縁を切った(逃がした)と言われています。縁切榎と言う木も近くにあり、その木の下で別れを告げたとも言われています。
 また、実際に関東各地には護良親王が生存して住んでいたと言う伝説も残されています。

 しかしながら、鎌倉を占拠されると言う切迫した状況を考えると、ただでさえ、足利直義の傍に仕える淵辺義博は、鎌倉から淵野辺に戻るような余裕はなかったのでと筆者は考えます。確かに北条時行に護良親王を担いで新しい政権が発足でもしたら、大変面倒な事になります。その為個人的には「逃がした」と言う説には疑問を感じます。逃がしたのではなく、敗戦を知った妻子や残っていた家臣が逃げる為、淵野辺と言う地に別れを告げたと想像すると、のちにこの話が脚色されて、このような逸話になったのではないかと推測できます。

 また、津久井には護良親王に寵妃として仕えていた雛鶴姫が首を持って逃げてきたと伝わる雛鶴姫伝説があり、津久井3姫のコーナーでご紹介している。

 足利直義は東海道を三河国矢作(岡崎市)まで逃げましたので、この時淵辺義博も同行したものと考えられます。北条時行軍は逃げる足利直義を駿河国手越河原(静岡市)で撃破し。
 その間、足利尊氏は後醍醐天皇に北条時行討伐の許可と同時に武家政権樹立をもくろみる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請しますが、後醍醐天皇は拒否します。
 天皇の出陣許可を得ないまま、京から足利尊氏は軍を進め、最初500騎程度だった援軍も、駿河の足利恩顧の武将、吉良・一色・今川などが加わり2万の軍勢となりました。敗走していた足利直義に合流した足利軍は盛り返し、遠江国橋本、小夜の中山、相模国相模川、片瀬川などの戦いで北条時行を撃破。北条時行は逃亡、諏訪頼重らは自害。足利直義は、兄・足利尊氏と共に鎌倉に入ります。明確な政治方針などを持たなかった北条時行は鎌倉を占領していたのはわずか20日間でした。
 
 その後の北条時行は、後醍醐天皇が吉野で南朝を開いてた南北朝時代に、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属します。北条時行は北畠顕家に属し、青野原の戦いなどで足利方と戦い、1352年、新田義貞の遺児新田義宗・義興と共に上野国で挙兵しますが、武蔵国で足利尊氏とその子足利基氏に敗れて捕らえられ、1353年5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑されました。北条時行の死により北条得宗家は滅亡することになります。

 室町幕府設立から南北朝時代へ

 中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、再び鎌倉を占拠し建武政権からそのまま離反するという姿勢を見せました。建武政権の後醍醐天皇は怒り、討伐令を発し、1335年11月19日、新田義貞を大将とする軍勢が、足利尊氏征討のために鎌倉に派遣されます。
 この時、鎌倉の足利尊氏は、討伐軍出動の報を受けても動とうとせず、業を煮やした足利直義らは独自に軍を進めてます。この時、渕辺義博も出陣しています。1335年12月2日再び駿河国手越河原(静岡市)で戦となりますが足利直義軍は敗北します。
 12月5日?負けが決定的になった際、細川定禅が足利直義に討死を勧めた為、長年仕えてきた淵辺義博が「まず御前で討死つかまつろう」と言い、主君より先に討ち死にすべく先陣を切り、単独で敵陣に突っ込み討死しました。しかし、足利直義やその他の武将はその討ち死に続かず、今川範国が「ここは御討死のつぼではありません。退かれ、味方をまとめられて、後日の御合戦を期すべきです」と申し出て、暗くなってから興津(おきつ、現在の清水)まで全軍を退却させることになりました。この話が事実であれば、渕辺義博の討ち死には全くの無駄死にだった訳です。
 その後、鎌倉・浄光明寺に隠棲していた足利尊氏が不利な状況を知り出陣し足利直義と合流。勢いを得た足利軍は箱根・竹ノ下で新田軍を破り一気に京都へ進撃し、1536年1月11日京都に入ります

 1536年、足利氏と天皇家は一進一退を繰り返します。新田義貞(35歳)、公家・北畠親房の子である北畠顕家(18歳)の軍が再び京を占拠し、更に楠木正成(42歳)・新田義貞軍に負けた)足利尊氏は九州まで逃げます。しかし、建武政権に不満を持つ九州を足利尊氏が味方につけて、九州を平定。再び京を目指し、福山城で新田義貞軍を撃破、更に湊川の戦いで新田義貞・楠木正成軍を破り、楠木正成は自刃。後醍醐天皇は比叡山・延暦寺に逃げます。足利尊氏は延暦寺も攻撃し、京へ入ります。
 新田義貞は金ヶ崎城で対抗を続けますが、後醍醐天皇(48歳)は足利尊氏が擁立していた光明天皇(15歳)に三種の神器を渡し、事実上天皇の座を明け渡し和睦します。(神器はニセモノだったと言う説もあります。)
 これを受けて1336年11月7日足利尊氏は京に幕府を置いて室町幕府を開きました。足利尊氏は足利直義に政務を任せます。
 北畠顕家のすすめもあったようで、あきらめきれない後醍醐天皇は、神器を携え12月21日吉野に入り、自らも政権だと主張し、北畠顕家(18歳)や新田義貞に足利氏に抵抗するよう指示を出しています。
 京にある足利尊氏の政権を「北朝」とし、吉野で、光明天皇の皇位は正統ではないと主張しした後醍醐天皇の政権を「南朝」(吉野朝廷)と呼び、南北朝時代が始まり、絶えず戦が起きました。
 その後、1338年北畠顕家と新田義貞と相次いで戦死し、南朝の軍事力は弱まります。
 義良親王(10歳)、宗良親王(27歳)、北畠親房(45歳)・北畠顕信らは南朝勢力の拡大を目指し、11月海路を東国へ進みますが、暴風雨にあい、散り散りになります。北畠親房は常陸国に上陸し、小田治久を頼り、小田城(茨城県つくば市)で「神皇正統記」・「職源鈔」を執筆したことで有名です。
 1392年、足利義満の時、南朝が和解して56年間続いた南北朝時代が終わります。

 淵辺義博の大蛇退治伝説

 始めのほうでも少し触れましたが、淵辺義博には大蛇退治の伝説があります。

  境川のほとりの龍池という大きな淵に、大きな蛇が住み人々に害を及ぼしていた。義博はこれを聞き、従者と池に向かった。するとにわかに天がくもり、雷鳴とどろき、暗雲巻き上がる。
 槍のように雨が降り、地上は暗闇に包まれた。池の中央が波立ち、池の底より ん?、なんで底だと分かったんだ? と大蛇が現れた。そのとき「義博」少しも慌てず、鏑矢を強弓につがえ大蛇めがけて放つ。
 鏑矢は見事大蛇に命中し蛇体は三つに分かれて飛び散った。すると、一転して天地は晴れ渡り村は平和になったと言います。

 その後、龍池は埋め立てられましたが、それでもまだ蛇が出たのか、疫病が流行った理由を蛇の霊が理由と考えたのか、3つに分かれた蛇を供養するため1338年~1341年の頃、天台沙門存光上人によって、蛇の頭部には龍頭寺、胴の部分には龍像寺、尾部には龍尾寺を建立したと龍像寺に伝わっているそうです。その後三寺とも荒廃しましたが、約200年のちの1556年に龍像寺は巨海和尚により再建され、現在も残っています。淵辺義博が退治した龍の骨と義博の使った矢尻、石碑が龍像寺(東淵野辺3丁目)に残っています。龍像寺は厚木・七沢にある広沢寺の末寺です。

 淵野辺の地名

 このように淵野辺の地名は、横山党の野邊三郎(野部三郎)が矢部に住んだ際に、野部氏の子孫が隣村(現在の淵野辺)に住んだと推測でき、足利義直の家臣が現在の古淵の辺りを治めて淵辺氏と称し、その野辺と淵辺が交じり合って、現在の地名・淵野辺と言うようになったとも考えられます。
 「新編相模国風土記」には、淵辺氏館は「村の北にあり、広さ三町、馬場蹟等今尚残れリ、又第六天の祠あり」と記されています。
 当麻無量光寺の古文書には、淵辺原(ふちのべはら)の地名がみられます。

 淵辺義博が静岡で戦死した後、淵野辺あたりを誰が治めたのかは資料がほとんどなく、もしご存知の方がおられましたら、コメントより情報を頂けるうれしく存じます。
 北条早雲が相模国を統一してからは、八王子辺りまで北条氏の支配下でしたので、小田原北条氏の支配地域であったことは間違えありません。
 もし、今後新しいことがわかりましたら、追記致します。
 江戸時代に淵野辺を知行した岡野氏については、江戸時代の相模原でご紹介しています。

 (参考) ウイキペディアなど

 →相模原の戦国時代ヒストリア
 →雛鶴姫~後醍醐天皇の第1皇子である護良親王の子を宿すも秋山へ
 →護良親王と興良親王
 →護良親王の墓と鎌倉宮(大塔宮)


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