日本武尊(ヤマトタケル)の火攻め伝説は、神奈川県大和市か?

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 ヤマトタケルの相武での火攻め伝説は、相模原の説もありますが、より可能性が高いと考えられる、神奈川県大和市の説をご紹介させて頂きます。

 日本武尊(ヤマトタケル)の東征の内容や、古事記・日本書紀の解釈は、相模原説にてご確認願います。

 ヤマトタケルの妻である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、浦賀水道で房総に渡ろうとした際に、命を落とした際の古事記にある和歌。

 「さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも」

 をもとに「小野」と言う地は「大野」であり、まさに相模野台地・相模原台地を差していることは相模原説記事にてご紹介致しました。

 それらをもとに、ヤマトタケルが火攻めされた地が神奈川県大和市付近であることを検証させて頂きます。




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東海道の古道

 単純に、近畿に大和政権があったころの相模の古道を考慮すると、海老名から長津田に向かう矢倉沢往還、すなわち現在の「厚木街道」(旧246号)が概ねのルートとなります。

 ヤマトタケルの軍も、疲労が重なってしまう未開の地で、道なきところを進むとは考えにくく、できる限り通行に便利な「街道」を通って進むでしょう。

 それを考慮すると、海老名から相模の国造が、ヤマトタケルを「矢倉沢街道」に誘ったのか、海老名から東京都府中市方面に分岐する「奥州街道」に誘ったのか、そのどちらかと言えます。
 実際には、誘ったと言うよりは、海老名で緒戦に敗れると、どちらかの街道に敗走して、火攻めを試みたと考えてよいかもしれません。

火攻めの地は神奈川県大和市か?

 先にハッキリさせておきますが、神奈川県の「大和市」の由来は、近畿や大和政権とは一切関係ないとされています。
 明治時代に入り、村や町が合併した際に、村同士で揉めたため「大きく和する」と言う意味で大和町となりました。それ以前の村名などでは大和の名称は見受けられません。

 しかし、大和市には境川沿いに「深見神社」と言う創建が古い歴史もあり、かなり昔から栄えていたのでしょう。

 そして、注目すべきは「草柳」と言う地名が存在する事です。

 大和市の草柳は、中心部の大和駅から西側に広がり、結構広範囲となっています。

 引引地川の源流である「泉の森」

 その西側部分には「矢倉沢街道」がまさに草柳に接しており、沼とも解釈できる引地川の源流である「泉の森」が現在公園としても整備されています。

 

 上記は引地川源流の清流動画です。
 もちろん、その周囲の台地は「相模野台地・相模原台地」であり、古来からススキ野であったと推測できます。

 これはかなり、注目ですよね。
 相模原説では「草薙の剣」が説明できなかったのです。
 相武台駅周辺には、草薙さんと言うお宅が集中しているのですが、それが草薙の剣に関連するかは全く自信がなかったのですが、この大和市には「草柳」の地名があるのです。
 発音はほとんど同じですからね。

 泉の森公園

 となると、大和市と座間市の境界線付近は、小野(大きな野)と、沼(泉の森など)、草薙(草柳)と条件が揃っています。

 相模原説でも記載致しました通り「ヤキツ」に関しては、敵を処刑して燃やした場所ですので、もし捕虜になっていたとすると、必ずしも、火攻めされた場所がヤキツとは限りません。

 大和市説は、原茂清氏、山口正男氏らが唱えておられますが、うなづけます。

 深見神社の原型ができたころは海と接していた可能性があります。
 しかし、ヤマトタケルの時代にも、この辺りが海岸線であったと言うのは大きな誤りですね。

 →相模原説の詳細
 →深見神社(神奈川県大和市)1500年の歴史を誇る信仰