淵野辺を幕末まで知行した旗本・岡野氏

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淵野辺は1590年当初、徳川家の直轄地だったが、関ヶ原の戦い以降、岡野氏が淵野辺を所領とした人物として文献に残ることになる。
岡野家の先祖は小田原北条氏の評定衆であり、特に外交において秀で、内政にも名を残している有名な「板部岡越中守融成(板部岡江雪斎 いたべおかこうせつ)」(1537年~1609年)だ。

板部岡江雪斎~北条3代に仕えた外交僧であり和歌や茶道を好む風流人

岡野江雪斎には子がおり、長男・岡野房恒は岩槻城主・北条氏房に仕え、北条滅亡後は、恩田村の妻の実家に身を寄せた。
その後、1591年徳川家康に召抱えられると、長津田・栗木で500石となり、長津田陣屋を構えている。
以後、岡野本家は長津田を代々知行した。
関が原の戦いでは、父・岡野江雪斎と共に従軍し、大阪の陣にも参戦。


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岡野房恒は1624年、鉄砲同心30人預かりとなり、甲斐・八代の500石を加増。
1632年には馬上同心5騎預かりとなり、1633年上総・香取で500石加増、計1500石となった。
岡野本家歴代の墓は、長津田の大林寺にある。
岡野江雪斎の次男・岡野房次(ふさつぐ)は、最初、北条氏政に仕えた。
小田原落城後、徳川家康の娘婿であったことなどから助命された北条氏直の高野山送りが決定すると、岡野房次は、父の命により北条氏直に従って高野山に同行した。
北条氏直の没後には、豊臣秀吉の命により北条氏の後を継いだ北条氏規の子・北条氏盛に従った。
1604年、伏見城で徳川家康に拝謁すると、常陸・水戸城25万石の徳川頼宣に使え、常陸国で500石を知行した。
その後、徳川頼宣が駿河・遠江両国50万石に転封した際にはどうも駿府に移ったようだ。
この徳川頼宣は、その後紀伊55万5千石に転封し、紀州徳川家の家祖となった。
岡野房次は駿府にて1611年9月25日没。享年39歳。

1626年、岡部房次の子、岡野英明(ひであきら)が現在の相模原市の淵野辺村(500石)の地頭となった。

岡野英明は1604年、わずか5才の時、祖父・岡野江雪斎の口添えで、徳川家康に拝謁。
幼少ではあったが、紀州徳川家の祖となる徳川頼宣の伽役を務めた。
大阪の陣にも両方参加し、1626年小10人頭となり、淵野辺村など合計1412石となった。
そして、朝鮮国信使来朝の際の上使や、御先手御鉄砲頭などを任された。

1663年、4代将軍・徳川家綱が日光参拝の折には、病中の岡野英明も命により参加している。
同年1663年8月25日没。享年64。

岡野英明の弟で、3代目を継いだ岡野貞明は、大阪大目付役、長崎奉行などを歴任している。

他の藩が飛地として相模原各地を目まぐるしく分割知行しても、渕野辺や長津田の岡野氏は、板部岡江雪斎の末柄として徳川家からの恩顧を受け、領地替えされることなく、岡野家が幕末までを代々知行した。
淵野辺の龍像寺には岡野氏墓地がある。


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幕末には、勝海舟の父である勝小吉が、岡野家9代目・岡野融政(岡野孫一郎融政)の屋敷に居住していた。
その際、勝小吉は、岡野家当主の放蕩や岡野家用人の年貢不正使用などを改めさせ、岡野家の窮状を救ったとされている。

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