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相模原の江戸時代 (6) 目まぐるしく変わった領主

これまで、全5ページに渡り、相模原市内各地の街の江戸時代について触れてきたが、幕末まで相模原各地の支配者が固定した訳ではなく、改易などで、相模原市内の各地も支配者がめまぐるしく変わることになる。大半の領主は本貫地(本領地)が別の土地(藩など...

相模原の江戸時代 (4) 鶴間

鶴間徳川家旗本の大岡義成(大岡吉重郎義成)(?~1598年)が上鶴間360石のうち300石で入る。残りの60石は徳川家直轄地。大岡氏は鶴間以外は知行しておらず、鶴間が本貫(本領)である。のち330石に加増された大岡氏は「矢口」を中心に江戸末...

相模原の江戸時代 (3) 下九沢・上九沢

 下九沢 1698年からは、佐野勝由(佐野信濃守勝由)と、加藤明教(加藤三左衛門明教)の2人が下九沢を分割知行して幕末に至った。 加藤氏は、書院番を勤め、所領は下野国都賀郡内の6村が中心で、相模国では4村のうち、1つがこの下九沢52石であっ...

相模原の江戸時代 (2) 上溝・下溝

上溝・下溝 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日~1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知...

又野城(又野城山) 津久井の謎の城を特定してみた

 相模原市の津久井城に近い津久井又野に城山(245m)と呼ばれる場所があります。 又野城山とも呼ばれます。 天然の要害地形であり、相模川と道志川の合流点である沼本の渡しから三ヶ木へと津久井街道を登ってくる敵を高所から迎撃できる有利な防衛線陣...

仙洞寺山烽火台 相模原にある北条家の監視城

 相模原の津久井・道志川と串川の間にある仙洞寺山583mは「火海(ひうみ)峠」と呼ばれ、この山が津久井城と伏馬田城との中間点に位置することからも、烽火台として使用したと考えられます。  津久井には、烽火の火が消えず、付近一帯の山が本当に火に...

尾崎行雄とは 伏馬田城主尾崎氏の子孫

伏馬田城主だった尾崎掃部助の子孫は、北条氏滅亡後、又野(現在の津久井湖畔)に移住し、江戸時代初期には又野村の長となった。その後明治初期、尾崎氏の子孫に尾崎行雄(尾崎咢堂)と言う政治家が現れる。尾崎行雄は1858年又野で生まれた。尾崎咢堂の身...