相模原歴史シリーズ (番外編) 
 八王子大空襲と中央本線列車銃撃

 はじめに

 別章にて相模原の戦争時を取り上げておりますが、お隣り八王子では終戦間際の8月2日に空襲があり約450名が死亡。8月5日には高尾山近くで中央本線の列車が戦闘機により銃撃され、列車銃撃にしては日本最大の犠牲者を出しています。そんな、お隣り八王子での戦争記録を留めておきます。


 八王子大空襲と八王子列車銃撃
 
 終戦の日から2週間前の1945年(昭和20年)8月2日未明アメリカ空軍のB-29戦略爆撃機約170機が、八王子市上空に飛来。焼夷弾67万発を投下した。八王子旧市街地の約80%が焼失し、現在の八王子市域で約450名の住民などが亡くなった。

 八王子空襲で運休になっていた中央本線も、8月5日、ようやく運行開始した。

 長野行きの下り419列車は午前10時10分ほぼ定刻に新宿駅を出発。
 電気機関車ED16 7号機が牽引する列車には軍関係者が乗車する2等車と荷物車など8両編成であり、乗客のほとんどが非戦闘員の一般人であった。

 谷川忠良さん(当時37歳)は、この日は日曜日だったので、妻と子供4人を疎開させていた山梨県南部都留郡の実家を訪れようと5両目に乗った。
 石川まさじさん(当時41歳・女性)は、東京に残って働いていた夫へ、疎開先の山梨から食べ物などを届けて帰る途中だった。
 柄沢助十郎さん(当時51歳)は、結核の妻と子供たちを山梨県の石和に疎開・療養させ、東京・本所区菊川町の店との間を行き来していた。
 黒柳良子さん(当時17歳・学生)と美恵子さん(当時14歳・学生)の姉妹は、長野県の飯田に疎開するために乗り、進行方向左側の窓際に向かい合って座った。
 新宿を出た頃は、人はそんなに乗っていなかったが、車内は荷物であふれており、通路を歩くこともままならなかったようだ。
 立川駅には10時48分に到着。ここでも3日ぶりの開通を待っていた人が乗車した。
 おいの出征を見送るために山梨から立川の親戚の家に来ていた宇野うたさん(当時70歳)は、空襲を心配した親戚が止めるのも聞かず乗った。
 立川警察署の警部補だった手島国男さん(当時32歳)は甲府署に逮捕された容疑者を引き取りに向かった。中央線が不通だったため、この日まで引き取りが延びていたという。
 仕事明けを利用し、疎開先の長野へ帰ろうと降旗昭次さん(当時17歳・国鉄職員)は5両目に乗り、通路に腰をおろした。「車内は少々混み加減、立っている人が目立つ程度だった。」と証言する。
 八王子駅に到着すると、乗務員交替があり、竹田機関士、小関機関助士、河野勇機関車検査係、深沢隆機関助士見習らが機関車に乗車。  相模陸軍造兵廠に勤めていた鈴木美良さん(当時20歳)は、夜勤明けで山梨県北都留郡七保村(現在の大月市)の自宅に帰ろうと横浜線で八王子駅まで来ていた。419列車が大変混雑していた為、2両目の窓から車内に乗ったと言う。  八王子では3日ぶりの開通を待つ人が多かったようで、夏で暑い車両は超満員となり、男性や若者の多くは機関車のデッキ連結器上などにもつかまって乗車していた。
 八王子駅に停車中の11時15分に警戒警報が発令されたが、11時20分ごろになって出発したと考えられている。

 浅川駅(現在の高尾駅)に朝11時30分頃到着すると、警戒警報から空襲警報に変わった為、浅川駅で乗客を降ろし、列車から非難させた。
 浅川駅は関東平野部から甲府の山間部に入る手前の駅で、浅川駅から小仏トンネルまで急勾配を登っていく難所に当たる為、平坦線区の機関車と山登りの機関車との交換ができるよう、中規模な駅であった。
 空襲警報は発令されたままであったが、浅川駅出発すれば、あとは山間部でトンネルもあり、戦闘機も攻撃しないだろうと判断したようで昼12時15分頃、列車を出す判断に至り乗客に出発すると伝えたようだ。
 長田康子さんは、兄と二人で列車に乗ったが、出発すると言う知らせに誰もが乗り遅れまいと、我先に必死になって乗り込んだと言う。中学生の兄と小学生の私もギュウギュウ身体を押し込めながらやっと乗車したが、車内は兵隊さんや買出しの人で、立つ余地もなく、大人に挟まれて小さい私は潰されそうだった。それでも乗車できた喜びと「お母さんのところへ行ける」という嬉しさでいっぱいだったと言う。
 中田春吉さんは子供を連れていたが、列車は満員だったので、車内で座っていた19歳くらいの新宿駅に勤めているという女性に子供の一人を抱いてもらい、自分は列車の継ぎ目から半身を外に出したままで乗車したと言う。この女性は、新宿駅の出札係だった幡野すみ子さんだった。
 浅川町小仏(現・裏高尾町)の青木孝司さん(当時22歳)は、浅川駅からの乗車のひとりだった。青木さんは甲府の連隊から一時休暇で帰省し、再び隊に戻るところだった。
 超満員の状態で、12時30分(12時15分と言う説も有)、浅川駅を相模湖方面に出発した。列車は乗客が窓にぶら下がるほどの満員状態である。

 浅川駅からまもない湯の花トンネル(猪鼻トンネル)手前を進んでいたところ、八王子方面から追いかけるように飛んできたアメリカ海軍戦闘機P-51が列車を発見。2〜3機が左から列車に向けて機銃掃射と23cmロケット弾による攻撃を行った。
 最初の攻撃は機関車と1両目に集中した為、機関士はトンネルに入れて、難を逃れようと湯の花トンネルに入り停車。しかし、3両目からうしろの車両は全長162mのトンネルから外れて、その後、戦闘機は反復攻撃(繰り返し攻撃)をしたため、多大な被害を生む結果となった。
 列車銃撃事件としては日本最大の被害となり死者52名(65名とも)、負傷者133名。非公式では死傷者900名以上と、戦時中につき記録が定かでない。
 (写真は現在の湯の花トンネル)

 5両目にいた谷内忠良さんによると、敵機襲来が車内放送され、窓の遮蔽幕を下ろした、瞬間、左山頂に敵機数機編隊が見え、1回目の機銃掃射があったと言う。逃げることもできず、座席の板を窓際に立てかけ、荷物を頭の上に置き、低い姿勢で生きた心持ちなく敵機が去るのを待った。2〜3分の間だと思うが、2回目の機銃掃射があった。この時列車は停止し、前の客車の方から後方車両へと掃射されたと思った。ちょうど網棚のすぐ下のガラス窓から、ななめに通路に向かって銃撃され、満員と疎開荷物で身動きもできない車内から逃れることもできなかったと言う。
 3両目に乗っていた黒柳さん姉妹のうち、妹の美恵子さんは無事だったが、姉の良子さんは最初の銃撃で即死。
 長田庸子さんは、死体の中から這い出しかきわけ乗り越えて、デッキから線路に飛び降りると、素早く列車の下へもぐり込み、車輪の陰に隠れて「御先祖様のおばあちゃん助けてください」と、ひたすら祈ったと言う。車外へ出る時には、いっしょに乗った兄と離れ離れになっていた。
 5両目に乗っていた降旗昭次さんはP51が列車に並行して飛んできたのを見た。窓を閉め、鎧戸を閉めるが、列車は小仏峠への急勾配をノロノロと登っていた。しばらくたって、列車走行音に混じって不気味な飛行機音が私の耳に入ってきた。窓際に座っている人も気づいたのか鎧戸をそっと下ろした。「敵機だ」その人が叫んだ。私も目を向けた。まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。間もなくP51が右旋回して、1回目の銃撃が行われ。列車は止まった。「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。
 つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。操縦しているアメリカ人の顔まではっきり見える。私はとっさに通路の床に伏せた。と同時に「ダダダ......」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってきて、悲鳴があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。そのままの姿勢でじっと堪えていた。何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。男の人だったが、もう息はなかった。それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。
 新居誠二さん(当時19歳)も同じ車両に乗り合わせ、進行方向右側(北側)の席に3人で座っていた。銃撃が始まると、すぐ隣に座っていた兵隊が立ち上がって網棚の荷物を取ろうとした。新居さんは反射的にその席に伏せた。兵隊は網棚に手が届いたところを撃たれ、網棚に指がかかったままくるりとまわって、伏せていた新居さんに血しぶきを浴びせたという。新居さんはこのあと車外へ出て、湯の花トンネルの中へ入ったところ、そこには股と腕を撃たれた男性がいて「坊や助けてくれ」と言われたが、自分のことで精一杯で助けることはできなかったと語っている。また、銃撃後、戻った客車の中で、髪が短くごま塩頭の初老の男性が亡くなっているのも目撃している。原伝さんによると、この風貌は亡くなった父親の原満房さんに間違えないと言う。

 湯の花トンネル近くに住むの荒井地区の住民の証言もある。
 狭い谷間に轟く飛行機音と機銃掃射の音に、次は自分たちが狙われるのではと、家の中や防空壕木の影などで住民はじっとしていた。8月2日の八王子空襲のときには、敵機来襲はなかったから、まったくはじめての経験だったようだ。
 川村藤江さん(当時26歳・主婦)は、このときから子供たちが空襲を怖がるようになったと語っている。
 三光荘(現・浅川老人ホーム)に住んでいた落合(旧姓佐脇)多恵子さん(当時14歳)は、低空で飛び列車を銃撃するP51を見ている。
 突然耳が裂けるような凄まじい爆音を上げて、敵機が列車めがけて急降下していった。そのときヘルメットをかぶったアメリカ軍パイロットの顔が間近に見えて、恐ろしさにガクガク怯えたと言う。被った座布団の中から目だけ出してじーっとその光景を見たが、汗でびっしょりだったと言う。「早くトンネルに逃げれば助かるのに」「早く早くトンネルに逃げて」心で叫んだが列車はトンネルに少し入っただけで立ち往生した。P51は2機で空に輪を描く様に舞いながら交互に列車を銃撃した。その時間5〜6分程度だったと語る。
 上長房分教場からは寺原秀雄さんも駆けつけた。
 近づいてみると列車の中から子供の泣き叫ぶ声や、うめき声が生々しく聞こえてきた。私は、ギョッとしてその場に立ちすくみ、列車に入るのをしばらくためらった。やがて事件を聞きつけて地元の消防団、婦人会の人たちなどが現場に集まってきた。私もその人たちといっしよに7両目の車内に足を踏み入れた。車内は死傷者で文字通り血の海と化し二目と見られない悲劇な光景を呈していた。1両目には軍人が大勢乗り込んでいたが即死している者、ひざを射抜かれ立てないでいる者、ハラワタの出ている者、腕の関節を撃たれている者など色々であった。機銃弾は撃たれた部分は目立たないが、出口の部分はザクロのた口のように無残な穴があくのが普通で、ハラワタが出てるのは背中から撃たれた者だった。5歳位のかわいい男の子を連れた若い母親が、ちょうどお昼の弁当を広げていた時銃撃されたらしく子供だけが死亡し、母親が半狂乱になって泣き叫んでいるのはひとしお哀れを誘ったと言う。

 架線が切れてしまっていたことから、自力では走れない419列車を回送する必要があり、八王子機関区から蒸気機関車が現場に向かった。
 機関士だった長谷川富蔵(当時26歳)は、蒸気機関車を横浜線の相模原駅に疎開させたところ、助役から湯の花トンネルで列車が空襲を受けたから、浅川駅まで戻すようにとの命令を受けた。機関助士だった弟と2人で、C58蒸気機関車で向かい、湯の花トンネルから419列車を浅川駅の南の貨物線まで引き戻した。
 浅川駅に戻ってきた419列車は、それはひどいものだった。電気機関車の後部デッキは本当に血の海になっていて、血の水溜りが風でさざ波たっていた。1両目の客車は屋根もなくなっていた。軍服の布切れなどが落ちた天井の裂け目にもぶらさがり、座席もひっくりかえっていた。車内は床に白いふわふわしたものや、髪の毛のかたまりがあったりして、すべって歩きにくい状態で、血のあと、肉片や指先と思われる物も転がっている。
 列車は少なくとも翌日までは浅川駅に留まっており、駆けつけた遺族が車内に入って、遺品を見つけることもあったようだ。車内に残されていた荷物は浅川駅に全部集められ、駅の倉庫にうず高く積み上げられた。それらは持ち主が現れる度に返されたが、引き取り手が現れないものは戦後しばらくしてまとめて焼却されたと言う。

 現在、湯の花トンネル付近の現場近くには慰霊の碑が立ち、毎年慰霊祭が行われている。


 419列車の車掌

 昭和20年には、戦局が厳しくなり、兵士として出征する男性の代わりに駅務員の女性が車掌の仕事についていたが、当時419列車に乗務していたのは女性車掌1期性の18歳女性であった。
 列車が新宿駅を発車してからも、いつ銃撃があるかとおびえながらの運行だったと語る。多摩地区では7月以降、駅などが銃撃されるようになっており、駅に止まっていても安全とは言えず、浅川駅で停車していた時には乗客の何人かが「早く出せ」と駅員に怒鳴っていた。
 客車の間の貨物車両にいた女性車掌は、銃撃の間、じっと通路に身を伏せた。銃撃が終わると、機関士が無事かどうか確かめようとして先頭車両に向かったと言う。
 「車両には足の踏み場のないほどのすさまじい血の海。貴重品や手荷物の散乱。線路床に立った私は足がすくんだ。それは銃撃方向から反対の車輪の陰になるようにして、さらに車輪にしがみついて死直前のくるしみにあえぐ人たちが数人、なおも苦しいうなり声をあげ、胸のあたりから黒い血液をどくどく噴き出すように流していた。でも哀しくも、これらの人たちを救うすべは、私にはなかった。そして自分の全身を手でさわってみて、我が身の安全をたしかめた。線路わきの山林中には踵を撃ち抜かれた将校がいて、自力では少しも動けないようすであった。また腕を負傷した若い婦人が若者に手を合わせて、この子をぜひつれて逃げてくれとたのむ姿もあった。七歳ぐらいの少年だった。」
 この女性車掌は、終戦後まもなく国鉄を退職している。
 

 すでに勝敗は決まっていた

 日本海軍などは、首都防空の為、厚木飛行場に第三〇二航空隊の「雷電」や「月光」と言う最新鋭の迎撃戦闘機を配備するが、アメリカの1000機以上の大編隊が神奈川県に来襲しても、迎え撃つ厚木飛行場からの迎撃機数はたった2機〜10機程度と言った様子で、戦果も上がらない。しかも出撃のたびに半分程度は撃墜され戦力はどんどん減ると言った状態。
 昭和20年に入ると、迎撃する戦闘機数や搭乗員、そして燃料すら不足し、極端に出撃回数が減り、アメリカ軍機は、ほとんど抵抗を受けずに日本上空を飛行していた。
 終戦間際の20年8月頃には、厚木飛行機にかろうじて残っていた残存機も後方基地(北海道・千歳など)に移転させ、残った機体も燃料不足から爆撃されても安全な地下格納庫に入れて出撃を控えるなど、攻撃・反撃ではなく、機体温存することになった。

 八王子で列車が銃撃を受けた8月5日の翌日、8月6日には広島に原爆が落とされ、8月9日は長崎と両方で21万人もの一般市民が犠牲となった。8月14日御前会議にてポツダム宣言受諾を決定し、8月15日終戦を迎えた。
 アメリカが日本の一般市民へ無差別に攻撃したと言う国際法にも違反する事実もあるが、あと少し、戦争を早く終わらせることができなかったのか・・と思うのは私だけであろうか?

 そんな戦争を体験してきたにも関わらず、初代防衛大臣が2007年に「原爆はしょうがない」と発言し責任を問われ辞任するなど、自民党による政府は無念を残し戦争で亡くなっていった人々、そして現在も苦しんでいる被爆者・戦争被害者をなんとも思っていないのであろう。

 第2次世界大戦(太平洋戦争)と相模原

 参考文献 八王子の空襲と戦災の記録 

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