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 1335年中先代の乱の頃、相模原市の淵野辺には淵辺氏が存在していたことが確認できているが、そののち矢部氏の名が再び現れる。
 上杉氏憲(上杉禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に対して起した反乱「上杉禅秀の乱」(1416年)(禅秀とは上杉氏憲の法名)がある。
 三浦一族はこの頃、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の勢力下にあり、上杉禅秀勢の軍に当然ながら参加し、その中に矢部定藤八郎左衛門(矢部伊代守)と、子である矢部三郎と言う名前が見られる。ただし、相模国のどこに居住していたかは良くわからない。

 上記に出てくる矢部氏より確かで、大変興味深いのは須賀川城主・二階堂氏に仕えた重臣の矢部一族である。
 二階堂氏に仕える矢部氏は「二階堂四天王」の1人で、現在の福島県須賀川市大字浜尾字館などに居住したとも、越久館(須賀川市)に居住したとも言う。
 出てくる名前は、矢部周防守、その後弟の矢部伊勢守、矢部主膳など。
 1339年奥州評定衆の一人藤原式部少輔英房と道存家人・矢部又次郎が、岩瀬郡河東郷大栗・狢森の所領を争ったという古文書が残っているので、この当時すでに木船城主・矢部氏は大栗村と狸森村を本領とする行村系二階堂氏の家臣であったことが分かる。
 須賀川・矢部氏は、いつの時代から須賀川に入ったかはわからないが、三浦義明の次男・三浦義澄の系列の後裔=三浦一族津久井氏系と言われている。戦国時代には、矢部主税祐-矢部越前守-矢部常貞(矢部伊勢守常貞、弟に矢部貞武・矢部貞徳)-矢部盛貞(矢部下野守盛貞)と続く。
 また、岩瀬・須賀川の二階堂氏は、三浦氏同様、鎌倉時代初期源頼朝に仕えた二階堂氏を祖とするらしく、1444年頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、須賀川城を奪っている。その為、三浦一族津久井氏系の矢部氏が二階堂為氏の下で行動を共にしていたとも推測できる。

 地元では地元に矢田と言う地名があり、その矢田の出て、のちに矢部(箭部)と呼ばれたのではないかと唱える説もあるが、矢田氏は別に存在しており、矢田氏の一族が矢部氏になったとは一概に言えないと存ずる。
 ただ、相模原の矢部氏と言うよりは、三浦半島の三浦一族津久井氏系の出と考えた方が自然だ。

 また、面白いのは二階堂氏の一門(一族)として横山氏と言う名も出てくる。二階堂氏から分かれたと考えるのが普通かも知れないが、武蔵(八王子)で鎌倉時代初期まで君臨していた横山党の子孫と言う可能性も少しは考えられる。
 実際、須賀川の矢部氏からは二階堂氏に嫁いだ娘もあり、もし、横山氏が横山党の生き残りであれば、疎遠とは言え二階堂氏は横山氏とも姻戚関係となるが、裏付けるものはなにもなく、小生のたわいもない憶測に過ぎない。

 戦国時代になり1588年、一族の矢部盛貞は伊達政宗に攻め滅ぼされている。
 1589年10月伊達政宗が須賀川城を攻略。二階堂氏が没落すると、矢部義政(矢部下野守義政、源正義)は伊達政宗に仕える。1589年伊達政宗が発給した知行宛行状によれば、狸森1000貫文、大栗350貫文、堤350貫文、なとり175貫文、都合1875貫文が矢部氏の知行だった。
 居城の木船城(狸森城)は矢部義政が築いたようだ。
 また矢部氏一族である越久館主・矢部義久(矢部豊前守義久、越久豊前守義久)は1589年より伊達政宗に仕え、須賀川城攻めの功もあり、越久350貫文給分2貫を安堵されている。桔梗紋を使用している為、源氏の出と考えられるが、そうなると平氏の出である三浦氏と共通しなくなる。
 翌年には豊臣秀吉小田原攻めがあり、1590年6月5日、伊達政宗も小田原に参着し豊臣家に帰順している。

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