大化の改新 相模原は?

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 中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏による政治専横に憤り、天皇家(大王家)へ権力を取り戻すため、中大兄皇子(後の天智天皇)に近づき、曽我氏打倒を計画した。
 そして西暦645年6月12日に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺する。
 ここに大化の改新(たいかのかいしん)と言う政治改革が始まり、相模原もその影響を受けた。

 大化の改新の主な内容

 645年6月、孝徳天皇が即位し、年号を「大化」と改める。
 646年1月に改新の詔(みことのり)を発表。主な内容は下記の通り。

  公地・公民 皇族・豪族がもっていた人民や土地を全て天皇(大王)のものにし、豪族に食封(じきふ)を支給。
  国郡制度 日本を国と郡に分割して、朝廷から国司の派遣・統治する制度=中央集権国家。
  班田収授の法 戸籍を作成し、6歳になると口分田として土地が与えられ,死ねば国に返すと言う、
  公地を公民に貸し与える制度。口分田には税が課せられた。
  租・庸・調の税制度 新しい税制度。租=米、庸=労働の代わりに布、調=各地の特産物 を税として納める。

 700年頃の相模原

 930年代に編集されたとされる辞書「和名抄」(和名類聚抄、わみょうるいじゅしょう)によると、相模国全体では8郡67郷に分けられ、現在の相模原市域になる高座郡は、美濃、伊参、有鹿、深見、高座、寒川、塩田、大庭などの13郷1駅が属した。

 「塩田郷」は田名の塩田周辺であることは間違えないだろう。当麻・堀の内・清水などを含めていたと考えられる。
 「伊参郷」(いさま)は座間と考えられ新戸・新磯なども含まれていたと考えられる。
 「美濃郷」を「みじょ」と呼ぶと仮定すると、現在の上溝・下溝辺りか?

 史料には記載が無いが、境川の対岸(町田市側)も高座郡であった為、境川流域の矢部や淵野辺辺りも1つの郷であったと考えられる。
 これらの相模原地域には推定3000人~5000人の人々が暮らしていたが、水田は僅かで畑作中心だった為、貧困は極まりない状態だったと推測される。

 相模国分寺の「瓦」

 741年3月24日、聖武天皇は諸国に国分寺造営を命じる。しかし、国家事業にも関わらず、全国に国分寺が完成したのは843年と100年後である。
 諸国の国司が怠慢で、造営費用を着服したりなどの理由が考えられ、中央政府の権力が弱まっていたことを伺わせる。
 良い例が、東北での蝦夷(えみし) アテルイの反乱である。

 相模国分寺は、現在の海老名市に759年頃完成した。全国的にも早い。
 その相模国分寺や武蔵国分寺造営の際に使った屋根の「瓦」を生産した地が、境川上流域の小山・相原といった丘陵斜面の「のぼりがま」である。付近には瓦用の土になる粘土が取れ、日当たりも良く、境川があり水にも困らなかった。少なくとも8箇所にかま場が計200以上あったとされており、その遺構も確認されている。その規模は当時全国最大と言っても過言ではない。

 平氏と相模原

 朝廷も皇子皇女が増えると、財政を圧迫する為、皇族を減らす政策を取る。
 母が朝鮮・百済王朝の娘であり、平安京を作った天皇として桓武天皇がおりますが、その桓武天皇の孫にあたる皇族で、身分の低い者が皇族を離れて「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下った。この者が「平氏」の始まりとなる訳だが、889年頃、平高望が上総介として関東に下向し、平高望の子から常陸大掾の平国香、上総介の平良兼、鎮守府将軍の平良持(平将門の父)、陸奥介の平良文らと繋がった。平良文の子孫は関東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家の祖になった。
 その秩父氏からは、小山田氏が輩出され、三浦氏などは相模原にいた横山党と姻戚関係にもなっている。
 ちなみに、源氏は、桓武天皇の次の次の天皇、嵯峨天皇の孫などが源氏となっている。

 例えば、大和朝廷時代に与えられた村主(すぐり)と言う姓は、朝鮮から日本に渡ってきた渡来人の子孫に与えたものだ。
 天皇家も他聞にもれず渡来人が起源と考えられ、少なくとも朝鮮系の血が混ざっており、平氏や源氏もそうであり、縄文人と異なり「戦」を好むのが特徴だ。
 しかし、現代の我々日本人大半も朝鮮系の血が少なくとも混ざっていることは認めざるを得ない。

 武士の起こり

 下溝に「正田」と言う地名がある。正田と言うのは荘園領主自作の田園の呼び名である。
 これら荘園の領主が屋敷を構えた場所として、上溝には「丸崎」「中丸」「堀の内」と名残を感じられる地名が残されており、下溝にも堀の内がある。また、田名にも堀の内、御蔵屋敷、曽根恩屋敷、そして矢部にも本屋敷など領主が住んだ場所と推測される地名が残る。
 西暦1100年前後までには、全国的に、郡司・郷司・負名層が自ら墾田して領主となる開発領主が登場しており、相模原の荘園も同じ経緯だったと考えられる。開発した土地を彼らは公家や寺社へ寄進することで土地支配の権利を確保していき、財力を蓄え、後にその土地を守る為「防衛力」=武力を必要とし、武士の始まりとなった。
 そして領主の一族が郎党となり、次第に武士団と呼ばれるようになって行く。
 その後、相模原には八王子に発祥した「横山党」が支配することになる。
 横山党については、「横山党と相模原」のページにて詳しく解説している。

 参考

 相模原の歴史、相模原の史跡 (いずれも座間味都治著) 

> 相模原の戦国時代ヒストリア