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 JR相模線・番田駅からほど近い古い集落に名家「井上家」があるが、井上家の伝わる系図によると先祖は「泉親衡」(いずみちかひら、生没年不詳)とあるようなので調べてみた。

 泉親衡(泉小次郎親衡)と言えば、信濃・飯田に居住していた、鎌倉御家人である。
 
 そんな、泉親衡の名が残っている理由は「泉親衡の乱」(いずみちかひらのらん)を計画したからだ。

 鎌倉幕府では、1204年に将軍頼家が幽閉された後に暗殺され、北条氏によって源実朝が将軍に擁立されていた。
 泉親衡は、源満仲の弟・源満快の子孫と伝えられ、自身も源氏の一族であったことから、一御家人である執権・北条氏に対して、快く思っていなかったようだ。

 1213年2月に、泉親衡の郎党・青栗七郎の弟で安念坊という僧が、千葉成胤を訪ね、源頼家の遺児・千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権・北条氏打倒の挙兵への協力を求めた。
 千葉成胤は安念坊を捕縛し北条義時の元へ連行し、執権・北条義時を打倒しようとした計画が1213年2月15日に発覚した。

 北条義時は、すぐさま、計画に加担したとされる和田義盛の子である和田義直、和田義重、甥の千葉胤長ら、十数人を捕縛。
 泉親衡は、捕縛の使者と戦闘し、混乱に乗じて逐電したと言われている。

 当時、和田義盛は上総国の自領伊北庄にいて鎌倉を留守にしており、急を聞いて、鎌倉に駆けつけた和田義盛は、一族の赦免を嘆願し、和田義直、和田義重は許された。
 しかし、千葉胤長は許されず、3月に陸奥国岩瀬郡へ配流され、屋敷は没収されることになった。

 千葉胤長の屋敷は一旦は和田義盛が拝領することとなったが、その後、北条義時の反対に遭い、結局は北条氏の預かりとなったため、面目を潰された和田義盛は北条氏を打倒する意思を固め、和田合戦に繋がることとなり、相模原横山党も和田義盛に味方したのだ。

 井上家の先祖がなぜ泉親衡なのか?

 井上家に伝わる伝承によると、行方不明とされている泉親衡は、番田に知人がいたので、この地に隠れ住み、1214年病死したとある。
 泉親衡の長男・泉満衡は、その後母方の姓「井上」を名乗って土着し、井上角左衛門と改名し、その子孫が今日に至ったと言う。

 参考

 相模原の史跡(座間味都治著) 

> 相模原の戦国時代ヒストリア


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