相模原の江戸時代 (4) 鶴間

「相模原の江戸時代 (4)  鶴間」のアイキャッチ画像

鶴間

徳川家旗本の大岡義成(大岡吉重郎義成)(?~1598年)が上鶴間360石のうち300石で入る。残りの60石は徳川家直轄地。大岡氏は鶴間以外は知行しておらず、鶴間が本貫(本領)である。
のち330石に加増された大岡氏は「矢口」を中心に江戸末期まで上鶴間を知行した。現在でも上鶴間に墓碑が残っている。

大岡氏は、三河発祥の大岡氏一族と考えられ、徳川家譜代の家臣であると考えられる。そうであれば、町奉行で知られる大岡越前守とも先祖は同じと考えられる。

また、1625年からは長谷川正成(長谷川筑後守正成)にも鶴間の一部与えられ、大岡氏と二給になった。

長谷川氏は駿河小川(焼津市)の土豪で「長谷川長者」と呼ばれていた。
長谷川正成は今川義元→徳川家康に仕えた駿河・小川城主・長谷川正長の長男。父・長谷川正長は三方原の戦いで武田勢に討たれた。その後、長谷川正成は13歳で徳川家康の近習となり、高禄の旗本に昇進し、海老名の門沢橋村を本貫地として合計1751石となった訳である。なお、この長谷川氏の子孫には「鬼平犯科帳」の平蔵もいる。

なお、長谷川正成は徳川家康の影武者であったとも言われている。

> 相模原の歴史カテゴリ  サイトマップ

コメント(4件)

  • 河田 東海夫 より:

    長谷川正成の本貫は海老名市の門沢橋村とのことですが、私の郷里埼玉県深谷市の中瀬(利根川べりの集落)にも500石知行しており(元和3年から)、私の祖先が幕末まで代々その名主を務めてきました。
    私は仕事の都合で一時期上鶴間(東林間)に住んだことがありますが、たまたま「相模原の江戸時代(4)鶴間」を拝見させていただき、「1925年に長谷川正成にも鶴間の一部与えられ・・・」との記述が目に留まりました。その一部とは、具体的にどのあたりの地域だったか、もしお分かりでしたらご教示いただけませんでしょうか? 中瀬の長谷川氏知行の名主末裔としては、かつて私が住んだ東林間あたりがその中に入るのかは、個人的に大変興味のあるところです。

    • yasu より:

      河田さま、ご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
      ご質問頂きました事項は、なかなか難しそうですが、もし、わかりましたら、この欄にて追加でご報告申し上げます。
      不明でしたら、特にご報告致しませんこと、ご容赦願います。
      高田

  • elan より:

    上鶴間本町1丁目の国道16号と交差(村内ファニチャーの有る)する道路を「長谷川通り」と呼び、相模女子大内には
    「長谷川分」と呼ばれる土地がありました。
    長谷川通りに付いては地元の人もほとんど使っていませんし、高齢の人でも知らない人が大半と思います。
    鹿島台小南側の道を町田方面に少し行って低くなった辺りを「陣屋」と呼んでいます。
    位置関係から長谷川の陣屋の可能性も有ると思います。
    江戸時代の絵地図にも付近に「殿様ひかげ山」の文字も見られます。

    相給のもう一人、旗本の大岡の墓(惣吉稲荷)は上鶴間本町8丁目に有り、この辺り一帯は「中和田」と呼びます。
    上鶴間村は谷口(矢口じゃない)と中和田に分かれ、鶴園小や上鶴間公民館は谷口と中和田の境(実際はほとんど
    中和田)に有ります。
    二給を地域で分けていたのか石高で分けていたのかは存じませんが、残る名称から想像するにはある範囲が決まって
    いたのかも知れません。

    東林間は残念ながら当時は人の住んでいない、雑木林か草原(秣場)だったと思います。
    人が住む様になったのは明治に入ってから、横浜水道が引かれてからです(中村新開)。
    現在の様になり始めたのは小田急江ノ島線が敷かれてから、それも戦後の事でしょう。

      行幸道路はアスファルト舗装でコンクリート舗装は今の国道16号ですよ。
      私はそのコンクリートを持っています。

  • elan より:

    [長谷川通りに付いては〜]では無く
    [長谷川通りという呼び方は〜]ですね。
    訂正します。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください